創業ストーリー

手作りの工場

1947年、のちに2代目社長となる松島良平を責任者として、
高松市瀬戸内町に協和化学工業所を設立しました。
終戦直後、まだ高松市街に空襲の焼け跡が多く残っていた極端な物資不足の時代に
わずか数名の従業員で、塩田跡地にガレキを埋めて工場をつくりました。
ここから"協和"の歴史が始まります。

当時の協和化学工業所

社名「協和化学工業」の由来

『会社はそこで働く従業員たちのもの』という理念から、
「全従業員が協力する会社」という意味を込めて、
"協和化学工業"と命名しました。

社名「協和化学工業」の由来

『会社を絶対に潰したらいかん!』

初代社長である松島善男は、 第一次世界大戦後の大恐慌時に大阪港を訪れた際、
職を失い、困窮する街に溢れる多くの人々を目の当たりにし、
『こういう不幸な人たちを生み出したらいかん。
従業員やその家族をこういう悲惨な状況に陥れるわけにはいかん!
会社は絶対に潰したらいかん!』と固く決意しました。

『会社を絶対に潰したらいかん!』

第一回 春季慰安会

1951年、爛漫に咲く桜の花の下で
記念すべき春季慰安会が開かれました。
宴半ばで飲んでいたお酒も残り少なくなった頃、
日頃口数の少ない従業員がポツリと言いました。
「親方ぁ、来年の運動会には今日の倍くらいの人数で
来るようになっておかにゃいけませんナ。」
当時、協和化学工業所は総勢七名でした。
仰ぐ桜は一樹、その下に敷く莚は二枚で事足りた時代の話です。

第一回 春季慰安会

協和化学工業株式会社を設立

1950年、協和化学工業所で
水酸化マグネシウムと酸化マグネシウムの製造を始め、
その製造がなんとか軌道に乗ったことから
「これなら、仕事としてやれる」と思い、
1952年9月17日に"協和化学工業株式会社"として
本格的にスタートしました。

協和化学工業株式会社を設立

酒樽が原料タンク

1951年、しかしながら、
創業当初はまだ物資が不足しており、
満足のいく製造設備が調達できる状況ではなかった為、
造り酒屋から不要になった酒樽を譲り受け、
にがりのタンクとして使用していました。

当時のにがりタンクと2代目社長

創業当時の研究

また研究器具でさえも、
小さなおもちゃのような顕微鏡が一つ、
手製の電気乾燥機が一つ、
PH測定はリトマス試験紙と従業員の舌で
行うような状況でした。

創業当時の研究

“独自の技術による独自の製品開発”

当時の協和では、
大企業のような複雑かつ大規模な設備を使用して製造することは、
資金的に難しかったことから、
身の丈に合った製法を研究する以外に手はありませんでした。
何度も試行錯誤を繰り返し、独自の技術で世界一の製品開発を目指しました。
その結果、世界に先駆け、ハイドロタルサイトの工業的合成に成功しました。
その後も次々と新製品を開発、世界に提供しています。

独自の技術による独自の製品開発

“独自の技術による、独自の製品開発”は私たちの信条です。

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